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ルナパーク (浅草)
浅草ルナパークは、日本で最初にできたルナパークの名前を冠する遊園地である。東京浅草に1910年に開業し1911年に閉園した〔Isolde Standish ''A New History of Japanese Cinema: A Century of Narrative Film'' (Continuum International Publishing Group 2006) ISBN 0-8264-1790-6〕。河浦謙一〔『人事興信録. 4版』1915年 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕の映画会社である吉沢商店によって建設され所有されていた〔橋爪紳也『日本の遊園地』(講談社現代新書、2000年、p.58)〕〔The Problem of Cinema - Swarming Ants and Elusive Villains: Zigomar and the Problem of Cinema in 1910s Japan〕。浅草ルナパークはニューヨークのコニーアイランドに1903年に開業したルナパーク (en) を模して設計された〔Miodrag Mitrašinović, ''Total Landscape, Theme Parks, Public Space'' (Ashgate Publishing 2006) ISBN 0-7546-4333-6〕。 1910年9月10日の開業後は盛況であったが、1911年4月29日に火事により焼失したため〔「ルナパークの火事」都新聞 明治44年4月30日 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕、たったの8ヶ月のみの営業であった〔Comments in Sakutarō Hagiwara's ''Rats' Nests: The Collected Poetry of Hagiwara Sakutarō'' (Yakusha 1993) ISBN 1-880276-40-2〕〔Joseph L. Anderson and Donald Richie, ''The Japanese Film: Art and Industry'' (Princeton University Press 1982) ISBN 0-691-00792-6〕。ルナパークの火災とほぼ同時期に河浦の所有する大阪の映画館二件も不審火で焼失し、原因は放火だったとされている〔Isolde Standish, ''A New History of Japanese Cinema: A Century of Narrative Film'' (Continuum International Publishing Group 2006) ISBN 0-8264-1790-6〕〔David Richard Ambarasは1911年の''新公論''の「浅草の地元当局はスリなどの犯罪を黙殺またはサポートしていた」という記事を参照して、''Bad Youth: Juvenile Delinquency and the Politics of Everyday Life in Modern Japan'' (University of California Press 2006, ISBN 0-520-24579-2) の中で「有名な公園は、非行少年のたまり場となっていた」と報告している。〕。 この三件の火事により吉沢商店は苦境に陥り、アメリカから進出してくる海外映画産業などとの競争が厳しい状況となった。河浦はM・パテー商会のオーナーである梅屋庄吉に吉沢商店を$375,000 USD〔英語からの翻訳なのでドル換算になっているが取引は日本円〕で売却した〔Joseph L. Anderson and Donald Richie, ''The Japanese Film: Art and Industry'' (Princeton University Press 1982) ISBN 0-691-00792-6〕。そして河浦は、新しいルナパークを東京ではなく大阪に建設することを決めた。大阪新世界のルナパークは1912年に開園し1923年に閉園した〔History of Shinsekai 〕。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルナパーク (浅草)」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Luna Park, Tokyo 」があります。
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